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潮流

 日本共産党が発行する「しんぶん赤旗」の日刊紙1面の下に掲載されるコラム「潮流」のなかで、私が心に残ったものを紹介したいと思います。
 「潮流」が本になったことがあります。1987年に1冊目の初版が、1991年に2冊目の初版が出されました。この中からみなさんにご紹介したいもの、最近の「潮流」で紹介したいものを掲載したいと考えています。
 本になった「潮流」からの抜粋は、私を励まし、生き方に大きな影響を与えたものです。

 「潮流」を通じて、「しんぶん赤旗」を知り、日本共産党の立場を知っていただけたら、こんなにうれしいことはありません。
 また、私「佐藤まさゆき」という人間をしっていただければ幸いです。


<お詫び>下記の手塚治虫さんに関わる「潮流」を引用しましたが、私が手塚さんと交流があったかのような誤解を与えてしまいました。ひとえに私のブログ作成上の不十分さによるものです。お詫びがたいへん遅くなりましたが、関係者のみなさんにお詫び申し上げます。


●「八坂スミさん」 1986年7月2日

 埼玉県戸田市のお宅に、歌人の八坂スミさんを訪ねました。九十五歳で、ひとり暮らしです。「”よいとこしょ” はずみをつけても容易に立てず 部屋隅の『おまる』まで這いずっていく」。
スミさんは、枯れ枝のような指で、まくら元の電話に向かっていました。「でんわに頼るよりない わたしの表読み 病む身起こしては 日にいくたび」「ダイヤルが うまくまわらず 痺れた手 苛立ち苛立ち 摩り合わせている」。
 「もしもし、もうお食事すみました?この前、参院のことお願いしたけど、ええキョウサントウ。衆院は渡辺貢ですから。大丈夫?ご主人も?そう、ありがとう。ご主人、お名前どう書きますか?」。電話中、ときどき息が切れて、苦しそう。
 小型のノートには、支持を約束してくれた人の名前がぎっしり。通し番号がふってあって、参院選の分だけでいま169。相手にわかってもらえないと、「くやしい」と涙をぬぐいます。「ヤス・ロン」を押し出している一票に いいたいこと ”はっきり目を 覚ましてください”」。
 スミさんの寝床に、その日の「赤旗」がありました。「ほとんどが当落線上か、線上へあと一歩」の見出し。「びっくりしました。こんなことじゃいけない。がんばっておられるかたがたに、私は申しわけない。共産党を落としたら、国民にも申しわけない…」。
 おむつをあてたスミさんは、身をよじるようにして、また電話に向かいました。「這うこともできなくなったが 手にはまだ 平和を守る 一票がある」。


●「Nさんの電話」 1986年7月9日

衆参同時選挙の開票日の夜、名古屋市守山区の三十七歳の男性から電話をもらいました。うれしい電話でした。考えさせられる中身でした。再現しますから、いっしょに聞いてください。
 「もしもし、私のところの愛知一区は、田中美智子さんが八十五票差でせり勝ちました。『潮流』さんにはげまされて、一生懸命がんばったら、ちょうどその分だけせり勝って。お礼をいいたくて」。
 「私は市内で農業をやっていますが、ちょうどトマトの最盛期で、最終盤までほとんど活動していませんでした。朝五時からビニールハウスに入って、日中数時間は暑くて入れませんが、そのころは支持を広げたくても人はいないし。結局ダラダラきてしまいました」。
 「でも『潮流』さんが書かれることがいちいち胸にささって。それが引きがねになって、いてもたってもいられなくなって、最後に百票ちょっと支持を頼みました。あのときのあの人に頼まなかったら、あのとき電話しなかったら…どれ一つぬけても当選できなかった。ほんとうにありがとうございました」。
 お礼をいいたいのはこちらのほうで、聞いていてジーンとしてきました。Nさんといいますが、たくさんの”N”さんがいて、田中美智子さんの当選になりました。同時に、Nさんの一念発起がなかったら、数字の上からいって、田中当選はなかったかもしれません。
 漠としてとらえがたいかに見える「選挙」ですが、票を形づくるのは、確実に一人ひとりの「私」の活動です。「次はもっと早くから、倍ぐらいがんばらないと」。電話でNさんと、つくづく語りあったことでした。


●「八坂スミさん逝く」 1986年12月23日

たしかまだあったはず。そう、この「わかめ茶」。八坂スミさんは、訪れた人になにかを持たせて帰す人でした。好意の風味を味わいながら、剛毅なばばをしのんでいます。スミさんは、七十七歳になって初めて歌集『野火』をだしました。「気負い立つ烈しさは老いになけども静かに燃えん野火のごとくも」。強い意思をうたいながらも、「年相応に、ひかえめに」の思いがよみとれます。歌のスタイルも定型で、文語調でした。
 八十七歳、第二歌集『新陳代謝』。「こんなにもでると 思わなかった/耳垢――/まだまだ生きられるのだな/この新陳代謝」。たくましい生命力は、定型短歌のわくからもはみだしてしまいました。口語で、自由に、これなど四行の分かち書きです。
 寝たきりに近くなっても、歌があり、電話がありました。なぐさめではなく、武器として、悪政を怒って詠み、直接電話し、それをまた詠みました。「ゴリ押しの 中曽根思えば/いたたまれず/機密法阻止/自民・三木武夫氏にも 電話している」。九十四歳の昨年の歌です。
 「スミさんの電話」は同時選挙のさなかに紹介したことがあります。ときに口がもつれても、共産党支持を訴える言葉は真剣でした。「ダイヤルが/うまくまわらず 痺れた手/苛立ち 苛立ち 摩り合わせている」。「励まされた」という読者の声がスミさんを喜ばせました。
 「生きることが/反戦平和につながれば/わたしは生きる/這いずろうとも」。享年九十五。目標の百歳まで五年、「王手をかけた」といっていたのに。




●「苦難を超えて」 1987年6月13日

毎月、皆勤賞を出していた学校が、弊害があるとしてやめてしまいました。体をこわしても無理して登校し、何日も休む結果になるからです。賞が自己目的になっては、賞どころではない、ということでしょう。
連続出場2130試合の世界タイを記録したプロ野球広島東洋カープの衣笠祥雄選手は、「一生懸命野球をやってきてこうなった」といいます。人は「一生懸命」をどれぐらい持続できるでしょうか。衣笠選手が2130試合に要した年月は、十六年と八カ月でした。
 巨人の王監督は、「衣笠のすごいところは、死球をぶつけられても文句をいわないことだ」といいます。長く広島の監督を務めた古葉・大洋監督も語っています。「彼はケガの時でも、グラウンドでは痛そうな格好はしなかった」。それらのことが、なぜ「すごい」のか。
 人は苦難をいいわけに使いがちです。そのためには苦難を大きく見せた方がいい。うまくいかなければ、苦難のためで逃げる。うまくいけば、苦難にもかかわらずと、過大に評価され慢心する。どっちにしても、自分で自分の進歩をつみとってしまうことになります。
 死球は怖い。いつ出場できない体にさせられるかわからない。どうするか。衣笠選手は致命傷を避けるために、上手に当たる練習をしました。体をひねって背中に当てます。死球はいくらでもきます。投げつけた投手を殴って終わりにしていたら、次の死球もよけられません。
 衣笠選手は四十歳になったいまも、こう思うのだそうです。「オレはまだ、もう少しうまくなれるんじゃないかな」と。きょうよりは明日。人生、常に前進です。




●「手塚治虫死去」 1989年2月10日

 漫画界の第一人者手塚治虫さんがなくなりました。心やさしく、正義感の強い人でした。手塚さんが描く作品の主人公がそうであったように。「鉄腕アトム」のアトム、「ジャングル大帝」のレオ…。
記者としてのかけ出しのころ、手塚番をおおせつかりました。手塚さんには、「赤旗」日曜版に「羽と星くず」を連載していただいていました。毎週一回、東京・練馬区のお宅に、原稿をもらいにいくのが仕事でした。手塚さんは三十歳半ば、売れっ子中の売れっ子でした。
 二階が手塚さんの仕事場で、階下が手塚番の”待合室”でした。いつも各社の十人ぐらいがつめていました。「○○社さん」。原稿があがると、ひもでつるしたかごがおりてきました。呼ばれた者は喜色満面、他はため息。みな毛布をかぶって徹夜覚悟でした。
 「赤旗」だけが例外でした。奥さんが来訪を告げると、仕事を「赤旗」用にきりかえました。「他社からうらまれます」というと、手塚さんは答えました。「『赤旗』のようなまじめな新聞にかかせてもらえるだけでうれしい。他社のは仕事、『赤旗』のは僕の気持ち」。
 事実、手塚さんは原稿料を受けとりませんでした。連載中ずっとプールし、終わったとき離島にテレビを贈ることにしました。手塚さんの発案でした。仕事の打ち上げに、編集長命で一席設けました。大衆的なトンカツ屋でした。後日、手塚さんは筆者を高級ステーキ店に呼び出しました。「礼しなきゃ」。
 「やさしくてヒューマンで、まじめ」。手塚さんの人柄そのものですが、実はこれ、手塚さんが「赤旗」にいつも使った言葉でした。




●「共産党への偏見」 1989年3月14日

拝啓、相沢家胤さん。一昨日の本紙「こんどは日本共産党」で、相沢さんの発言を拝読いたしました。六十八歳になって、共産党を誤解していたと気づき、「もう迷わない」と。感激でした。
 心うたれたのは、共産党にたいして抱いてきた偏見を率直に語っていた部分です。「私たちの世代には共通して、共産党は恐ろしい、近づかない方がいいという警戒心があります。戦前、特高警察に追われた思想犯のイメージ、ソビエト・ロシア、いわゆる適性国家、その手先、暴力革命…」。
 本当にそうだと思います。相沢さんのお年なら、戦前、戦中、二十年余も「共産党は怖い」と教えられたわけですから。でも共産党の主張に、国民に背くものがあったでしょうか。国民に主権を、婦人に参政権を、農民に土地を、労働者に八時間労働制を…。
 なにより共産党は、あの侵略戦争に命をかけて反対しました。共産党が怖かったのは、当時の天皇制政府です。だから国民を共産党から切り離そうと、懸命に反共攻撃をやりました。偏見はその結果です。偏見を持たされた人の責任ではありません。
 相沢さんのように、いまその偏見を捨てていただくことが、とても大切だと思います。共産党の前進にとって必要というだけではありません。日本の社会を民主的に前進させてるうえで、欠かせない課題だと思うのです。自社公民のなれ合い怒っても、「共産党はいや」では本当の改革は望めません。
 偏見は迷信のようなもの。必ずなくせます。偏見が多いということは、発展の可能性も大きいということです。がんばります。ありがとうございました、相沢さん。



●「吃音に立ち向かう」 1990年10月7日

★原文には東京言友会の当時の電話番号が書いてありますが、電話番号が変わっていますので削除しました。最新の連絡先は、検索エンジンで、「言友会」と入力して検索してみてください。ホームページがあります。(佐藤まさゆき)

 吃音(どもり)に悩む人は多い。人口の1%内外と言われます。東京・上野で歯科医院を営む丹野裕文さん(五二)も長いこと吃音に苦しめられてきました。
 小学校へ上がる前から吃音を意識し、入学時にどもって自分の名前がいえませんでした。小学校高学年では、どもるために学芸会からはずされました。教科書のやさしい文字もどもって読めず、先生からはバカにされ、級友には「どもりの丹野」とからかわれました。
 負けずぎらいの丹野さんが意を決したのは大学生のとき。「徹底して吃音に立ち向かってやろう」と。吃音者仲間で「言友会」を作りました。一九六六年四月三日のことでした。いま全国言友会連絡協議会(全言連)に発展していますが、スタートを切ったのが丹野さんたちの東京の言友会でした。
 毎日曜日に集まっては声をはり上げました。詩吟、講談…。すぐに効果はあがりません。会員が脱落していく。丹野さんは考えます。「吃音矯正は技術ではない。人間愛と寛大な思想を備えた人間形成だ」と。「吃音」に青春を投げうっているうち、丹野さんは白髪が目立つ年になっていました。
 この春丹野さんは、娘の中学卒業式で「謝辞」を詠むよう頼まれました。丹野さんは逃げず、逆に「私はどもりでした」と切り出しました。「私はいいたい、努力すれば道は開ける…」。涙が止まりませんでした。会場も泣きました。丹野さんはどもりませんでした。
 丹野さんは最近、東京言友会の創立二十五周年を記念して『吃音と私』という本を出しました。「仲間たち、いっしょに道を開こう」と。


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